越後屋の『学び合い』帳

東京の高校国語科教員。『学び合い』と授業とクラスと。

【追補】“モデル”授業

前回のエントリーの補足です。
“モデル”授業 - 越後屋の『学び合い』帳

武蔵大学の学生さんたちは、従来型の教育において、相対的に「よい思い」をしてきたはずです。たまに「自分の受けてきた教育に納得できないから変えたいんだ」という人もいますが、昨日お会いした学生さんの多くは、そうではないと思われます。
そういう意味で、意地の悪い言い方をすれば、「変わる必要のない」方々です。もちろん、学生の皆さんの責任ではありません。

学生の皆さんは『学び合い』に基づく授業を体験して、それぞれに「違和感」を口にしていました。
自分の中で当たり前だった教育観が揺さぶられるのですから、違和感を覚えて当然です。
一方で、モデル授業の体験では楽しさや有用感も得ているので、違和感を覚えることにも違和感があるのです。「楽しく勉強できたのに、なんで違和感があるのだろう」という思いが、きっとあっただろうと思います。
(昨日の時点で気づいていれば、直接本人に聞けたのに……)

例えば、スマホの利用について。私は普段、勤務校でも授業におけるスマホの利用を推奨しています。古典なんて、いくらでも現代語訳が上がっていますから。このモデル授業でも、学生さんがネットの現代語訳を参照することを前提に、授業をデザインしました。
しかし、彼らはそれをズルだと思っているのです。どんなに私が「見てもいいよ」と言っても、なかなか見ません(オブザーバーの記録によれば、最初の学生さんがネットを見たのは開始8分後だったそうです)。
授業者である私は、その行動を肯定的にフィードバックします。少しずつ、スマホが「ただの道具」になっていきます。

しかし、モデル授業終了後の振り返りにおいて、ある学生さんはこういう内容のことを言っていました。

先生はほとんど何もしてなくて、存在を消していたけど、たまに「そういうのいいね」って声がかかるから、あ、いたんだ、と思う。監視されているんだと思うから、スマホ出しててもTwitterとかやらないし、ちゃんと勉強しようという気持ちになれる。

ふとしたはずみに選ばれた言葉は、その人が無意識のうちに前提にしていることを、かくも如実に表します。
この学生さんは「私が監視的に機能していた」と言いたいわけではありません。上記の引用部分の文脈だけでも、それはわかると思います。だから、この学生さんを非難する気持ちはまったくありません。ただ、この発言は非常に示唆に富んでいます。
授業は楽しかった。自分の意志で漢文を読み込んだ実感もある。文章の内容について、自分なりにイメージ化もなされている。問いに対して、解答(自分の意見)を持つこともできた。先生は教室全体を温かい雰囲気にしてくれた。
それなのに。
「監視」という言葉は、それだけ認知の不協和を表しているのだと思います。

このことは、振り返りの場でしっかり指摘しておきました。
「揺さぶった」という意味では、教職課程のモデル授業としての役目を果たせたのではないかと、満足しています。貴重な機会を、ありがとうございました。
武蔵大学の皆さん、授業参観はいつでも来てね。