越後屋の『学び合い』帳

東京の高校国語科教員。『学び合い』と授業とクラスと。

玉ねぎは溶けてなくなる

この夏はいろいろな本を読もうと思っているのですが、目下読んでいるのはこの本です。

『学び合い』×ファシリテーションで主体的・対話的な子どもを育てる!

『学び合い』×ファシリテーションで主体的・対話的な子どもを育てる!

一つ一つの言葉を吟味するつもりで読んでいます。おかげで、考えることに事欠きません。

シンプルな「形態」

『学び合い』では、可能な限りシンプルな形態が良しとされる…という誤解があります。あえて「誤解」と書きました。
なぜ誤解なのか。シンプルな「形態」を志向している時点で、残念ながら「形態」にこだわっているのです。
『学び合い』は考え方だから、いろいろ試したものの、なんだかんだいって、結局はシンプルな形態に落ち着いた…ということなら、その通りだろうと思います。私自身、その経験も実感もあります。

しかし、ついつい、次のような発想に陥ってしまうことがあります。

  1. シンプルにした方が『学び合い』っぽいぞ
  2. よし、削ぎ落とすぞ
  3. 別にいま何を持ってるってわけじゃないけど、とにかく削ぎ落とすぞ
  4. (生徒の実態なんて関係ないぞ)

「あるある」です。誰もが陥りうる罠です。
結局はケースバイケースなのです。目の前の生徒のことをよーく見て、自分の頭でよーく考える以外に、方法はありません。

ファシリテーションの技術は必要

4人組にしたらファシリテーション
ホワイトボードを使っていたらファシリテーション
ごちゃごちゃと歩き回っていたら『学び合い』。

はい、「形態」にこだわっています。そういうことではないのです。
極端な例を挙げるのはずるいのですが、ノイズだらけの不明瞭な指示と、ノイズの極めて少ない明瞭な指示と、どちらがいいでしょうか。
技術はある方がよいに決まっています。特に、何をどうしてよいかわからない人にとっては、かなり大きな価値を持つと思います。
技術は、練習するうちに、意識しないでも使えるようになります。当たり前になります。しかし、そのタイミングがいつなのかは誰にもわかりません。人は多様ですから、やはりケースバイケースです。

玉ねぎは溶けてなくなる

圧力鍋でカレーを煮込んでいると、玉ねぎは溶けてなくなります。カレーの中に玉ねぎは確かに入っているのですが、目には見えません
同じことがファシリテーションについても言える、と考えます。「玉ねぎがあるからどうの、無いからどうの」という議論には、首をかしげざるを得ません。

どういう思想のもとに

そもそも、技術はあくまでも技術ですから、議論するならどういう思想のもとにそれが使われるかという点でしょう。

  • 〜という技術があるよ
  • 〜という技術を使わないと子どもは動かないよ

この二つの間には、天と地ほどの差があります。前者が後者に読み替えられる時、「目に見える玉ねぎの有無」という、ありもしない問題が問題にされてしまいます。
『学び合い』の〈子ども観〉を自分のものにしていれば、「技術は技術であってそれ以上でもそれ以下でもない」と思えるのではないでしょうか。あるいは、「その技術は教員だけのものではない」とも思えるのではないでしょうか。