越後屋の『学び合い』帳

東京の高校国語科教員。『学び合い』と授業とクラスと。

心の距離

「生徒だけで解決できることは、教員が教えないで生徒に任せよう」という授業方針が、「生徒と距離をおく」という意味にすり替わってしまうことがあります。最近、そういうお話をたて続けに耳にしました。生徒同士の協働を促進したい、という思いは、よくわかります。しかし、ここにはちょっとした思考停止があるようです。

〈学校観〉と〈子ども観〉から導かれた方針を生徒に伝えて、一定の賛同が得られれば、『学び合い』は成立します。生徒を動かすのは、テクニックでもなければ課題でもありません。「動かす」という表現自体が、そもそも適切ではありません。
彼らは私たちの方針に賛同して、自分の判断で動くのです。

「この人、なんか距離おいてるな〜」と感じさせる相手の言葉に、どれほど賛同できるでしょうか。普通はムリなんじゃないでしょうか。
一見すると距離があるように見えても、『学び合い』が成立している人は心の距離は近いものです。

ちなみに私の場合は、内心デレデレのベタベタなのが生徒に完全にバレています(笑)。そっけなくすると、「ツンデレだ、ツンデレだ」と私に直接言ってきます。それくらいの心の距離です。
もちろん、彼らは高校生ですから、実際にベタベタしてくることはありません。まあ、あくまでも、教員と生徒ですから。

『学び合い』信者

最近、Facebookで「『学び合い』信者」という言葉を目にしました。それに対して、ある方が「信者と支持者は違うんだよなぁ」と言っていました。

まずはここでいう「信者」という言葉を、「信仰をもっている人」という意味から区別しておきましょう。当たり前ですけど。
その上で、ここでは、自分で判断している人を「支持者」、何らかの判断停止に陥っている人を「信者」としておきましょう。

『学び合い』は、確かに「信者」のイメージと結びつきやすいと思います。提案していることが「個々のテクニック」ではなく、〈学校観〉と〈子ども観〉だからです。個別の現場では、判断停止どころか判断の連続なのですが、その判断の基準となる二つの観はブレません。
それを自分の言葉で語れるならいいのですが、「『学び合い』の学校観では〜」などと言ってしまうと、聞いている人(投稿を読む人)は「またそれか」と感じてしまうでしょう。
シンプルで汎用性の高い判断基準を持っていることは、いいことなんですけどね。

「信者」と言われたら、「警鐘を鳴らしてくれている」くらいに考えておくのがいいかもしれません。

最後に、『学び合い』を知ってしまった、悩んだ、でもやめられない…という過程を考えると、つい連想してしまう歌詞があります。

覚めない夢

覚めない夢

こちらから、歌詞をご確認ください。
覚めない夢 井上陽水 歌詞情報 - 歌ネットモバイル

歯医者で口が開けるか

口を開ける不安

以前、ホワイトボード・ミーティングの講座で、ちょんせいこさんがこんなことを言っていました。

歯医者で、何の説明も受けずに、口を開けられるか?

無防備な状態にどれだけ耐えられるか」という比喩です。
その時に私と一緒にいた人は、無理だ、不安だと言っていました。
私はというと、結構平気で開けられます。

言うまでもなく、これは優劣の問題ではありません。勇気の有無という話でもないと思います。しいて言えば、認知の癖でしょうか。
『学び合い』の最初の一歩は、よくバンジージャンプに譬えられますが、エイやっと飛べる人とそうでない人がいるのは確かです。

テクニックは安心材料

ファシリテーションの技術にせよ、西川先生のテクニック本シリーズにせよ、これらは「歯医者で口を開けるのは不安だなぁ」という人の不安を軽減させるためにあります。
基本的に教員の問題であって、子どもには何の関係もないことだと私は思っています。
だから、それで安心できるなら使えばいいし、いらないならいらないね、というだけのことです。

繰り返しになりますが、口を開けるのが不安な人もいれば、平気な人もいるのです。
いけないのは、平気な人が「テクニックは邪道だ」などと言って不安を強いることです。また、不安な人がそれを正当化して、「便利なもの」を「必須のもの」にしてしまうのも変な話です。不安はいけないことではないのだから、正当化する必要はありません。

『学び合い』×ファシリテーションで主体的・対話的な子どもを育てる!

『学び合い』×ファシリテーションで主体的・対話的な子どもを育てる!

昔の話

「教師教育を考える会」のメルマガに寄稿させていただきました。
こちらにも転載します。

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はじめに

私は20代の頃、私立学校の時間講師をはじめとして、いくつかの仕事を掛け持ちしながらフラフラと過ごしていました。今回、私自身の「(教員としての)学びの過程」を等身大に振り返ってみよという題材といただいたことで、つらつらと当時のことを思い返してみました。我が身を顧みるに、自分自身がレアケースに思えてなりません。そのままでは他の方のお役に立たないような特殊な事例ではありますが、少しだけお付き合いください。

客席からみた自分

私は20代の大半を、いわゆる貧乏劇団員として過ごしていました。早速、レアケース全開です。大学は私大の教育学部で、基本的には教員になるつもりでいました。教職課程の単位も取りましたし、もちろん教育実習にも行きました。
その一方、高校時代からの芝居好きが高じて、友人に誘われるままに劇団活動を始めました。免許状をもらって卒業する時には、正規採用されるつもりは一切なく、何の疑問も抱かずに演劇を続けることを選びました。ただし、教員になりたい気持ちもあったので(ここが私のずるいところです)、私学の時間講師をいくつか掛け持ちして、いくばくかのお給金をいただいていたわけです。
結局は劇団を辞めて教員になった私ですから、ここで偉そうに演劇について語ることは非常に恥ずかしいのですが、恥を忍んで「役者としての経験」を書きます。
一本の公演を打つためには、一定の稽古期間があります。稽古を通して、役者は演出家の演出を受けることになります。演劇に馴染みのない方にお断りしておくと、「演出」は「演技指導」ではありません。役者の演技だけでなく、舞台美術や音響、照明、衣装などのさまざまな要素のすべてを、ひとつの世界観のもとにまとめていくのが「演出」です。
オーケストラでいえば、さまざまな楽器の音を一つの楽曲にまとめ上げていく指揮者のようなものです。
さて、セリフの有無にかかわらず、役者は舞台上で何らかのアクションをします(無言で立っているだけだとしても、「ただ立っているというアクションをしている」と考えてください)。演出家はそれを見て「ダメ出し」をします。そのアクションが、その場で描きたいことを的確に伝えているか、チェックするわけです。役者の提案したアクションが演出家に絶賛され採用される時もありますが、もちろん否定されることもあります。
たとえば、役者は役の抱えている寂しさを表現しているつもりなのに、演出家が見たら「全然寂しそうに見えない」と言われてしまうのです。
したがって、役者は「自分が客席からどう見えているか」を常に考えざるを得ないのです。「役」として激情のただなかにいる(演技をしている)時も、「役者」として「いま客席からどう見えているかな」と冷静に考える自分がいます。これは特別なことではなく、教員でいえば「チョークで黒板に字が書ける」というくらい、当たり前のことなのです。
この意識は間違いなく、私の教員としての土台を形成しています。最近は「メタ認知」という言葉がよく聞かれるようになりましたが、私が生徒の前に立つ際に「どう見えているかな」という意識を持てるのは(そして感覚的にそれがわかるのは)、かつて演出家に稽古を見てもらい、ダメを出してもらった経験があるからです。

アクションの相互作用

当時の経験から得たものは、まだあります。舞台上で相手役とやりとりをしていると、相手のアクションによって自分の感情が動かされるのを感じることがあります。たとえば喧嘩のシーンで、相手役が私を上手に挑発してくるので、私も自然にヒートアップできる、ということがあります。
一言でいえば「芝居がやりやすい」ということです。
反対のこともあります。台本上では、相手が私に憎まれ口をたたいて、私がそれに苛立ちを募らせていって爆発する…という流れになっているのに、相手のセリフ回しがまったく憎らしくないために、こちらは爆発したくてもしようがない、というケースです。こういう相手を「絡みにくい」と評することは、テレビなどでお聞きになったことがあるかもしれません。
セリフ回しだけではありません。相手との立ち位置(間合い)や角度、目を合わせるか逸らすかという些細な動作も、相手に影響を与えています。
私は、生徒指導をしている際に、このことをよく思い出すのです。教員のアクションは目の前の生徒に影響を与えています。コワモテの教員の前で生徒が萎縮してしまう、というケースなら想像しやすいと思いますが、どんな場合でも影響を与えていると考えた方が無難だと思います。たとえば、「気になる」生徒と面談する際に、教員が安心したいあまりについ聞きすぎてしまって、生徒は話せなくなってしまう、という場面は容易に想像できるでしょう。生徒指導の際に、教員が「落とし所」に露骨に誘導してしまって、生徒が素直になれなくなってしまう、という場面はどうでしょうか。教員のアクションは、無視することのできない要素です。
 もちろん、プロの俳優ではない私たちは、自分のアクションを思いのままに操ることはできません。しかし、そのことを意識し、覚悟しておくことはできると思うのです。自分のアクションが影響を与えることを前提にするだけで、おのずと意識的になれるものです。「どういう影響を与えるかな」と考えることが大切です。

広げる視野、つなげる意識

以上、10年前の演劇経験を思い出しながら書きました。「そんな経験をしているお前は例外だ」と思われることでしょう。
しかし、教員以外の場面で得てきたことは、どんな方にもあると思います。それらを、ある目的意識のもとに整理し直してみると、きっと多くの気づきが得られるに違いありません。視野を広く持ち、意識的につなげると、自分の意外な強みが見つけられるはずです。

いきなりガンダーラ

洗練されたシンプルな形態に憧れる気持ちはよくわかります。私もそうです。

極力シンプルな方がよい。

そりゃそうです。わかってます。

しかし、ケースバイケースなのです。
目の前の生徒の実態をよく見ましょう。きちんと粘り強くやれば、シンプルな形態に至るかもしれません。決して「この生徒たちでは無理」と言いたいのではありません。

現実に関係なくシンプルな形態を(無理やり)実現させてしまおうとする心象をいきなりガンダーラ症候群と呼びたいと思います。
その前に、いろいろあるのです。
冒険とか、妖怪とか、いろいろあるのです。
子どもたちと一緒に、きちんと旅をすることです。

ただし、本当にいきなりガンダーラに着いちゃう人もいて、わからないものです。『学び合い』は考え方という所以です。

やはり、ケースバイケースなのです。

玉ねぎは溶けてなくなる

この夏はいろいろな本を読もうと思っているのですが、目下読んでいるのはこの本です。

『学び合い』×ファシリテーションで主体的・対話的な子どもを育てる!

『学び合い』×ファシリテーションで主体的・対話的な子どもを育てる!

一つ一つの言葉を吟味するつもりで読んでいます。おかげで、考えることに事欠きません。

シンプルな「形態」

『学び合い』では、可能な限りシンプルな形態が良しとされる…という誤解があります。あえて「誤解」と書きました。
なぜ誤解なのか。シンプルな「形態」を志向している時点で、残念ながら「形態」にこだわっているのです。
『学び合い』は考え方だから、いろいろ試したものの、なんだかんだいって、結局はシンプルな形態に落ち着いた…ということなら、その通りだろうと思います。私自身、その経験も実感もあります。

しかし、ついつい、次のような発想に陥ってしまうことがあります。

  1. シンプルにした方が『学び合い』っぽいぞ
  2. よし、削ぎ落とすぞ
  3. 別にいま何を持ってるってわけじゃないけど、とにかく削ぎ落とすぞ
  4. (生徒の実態なんて関係ないぞ)

「あるある」です。誰もが陥りうる罠です。
結局はケースバイケースなのです。目の前の生徒のことをよーく見て、自分の頭でよーく考える以外に、方法はありません。

ファシリテーションの技術は必要

4人組にしたらファシリテーション
ホワイトボードを使っていたらファシリテーション
ごちゃごちゃと歩き回っていたら『学び合い』。

はい、「形態」にこだわっています。そういうことではないのです。
極端な例を挙げるのはずるいのですが、ノイズだらけの不明瞭な指示と、ノイズの極めて少ない明瞭な指示と、どちらがいいでしょうか。
技術はある方がよいに決まっています。特に、何をどうしてよいかわからない人にとっては、かなり大きな価値を持つと思います。
技術は、練習するうちに、意識しないでも使えるようになります。当たり前になります。しかし、そのタイミングがいつなのかは誰にもわかりません。人は多様ですから、やはりケースバイケースです。

玉ねぎは溶けてなくなる

圧力鍋でカレーを煮込んでいると、玉ねぎは溶けてなくなります。カレーの中に玉ねぎは確かに入っているのですが、目には見えません
同じことがファシリテーションについても言える、と考えます。「玉ねぎがあるからどうの、無いからどうの」という議論には、首をかしげざるを得ません。

どういう思想のもとに

そもそも、技術はあくまでも技術ですから、議論するならどういう思想のもとにそれが使われるかという点でしょう。

  • 〜という技術があるよ
  • 〜という技術を使わないと子どもは動かないよ

この二つの間には、天と地ほどの差があります。前者が後者に読み替えられる時、「目に見える玉ねぎの有無」という、ありもしない問題が問題にされてしまいます。
『学び合い』の〈子ども観〉を自分のものにしていれば、「技術は技術であってそれ以上でもそれ以下でもない」と思えるのではないでしょうか。あるいは、「その技術は教員だけのものではない」とも思えるのではないでしょうか。

梅雨の古文文法

勤務校はジャンルとしては専門高校に属しています。ひどく偏狭な理解ではありますが、わかりやすくいうと、いわゆる「理系」の学校です。

そのため、国語の単位数は最低限しかありません。現代文分野と古典分野のバランスには気を遣います。いまようやく、古文の動詞の活用まで進みました。

動詞について、○○行△△活用の◇◇形が言えるようになる。

というのが目標です。

これが予想以上に、すこぶる調子が良いのです。生徒の調子が。
こんなに湿度の高い中で、「理系」の生徒が、古文文法について、こんなにも盛り上がるとは。

こうやって当たり前に学んでいることが、とても尊いと思います。