越後屋の『学び合い』帳

東京の高校国語科教員。『学び合い』と授業とクラスと。

梅雨の古文文法

勤務校はジャンルとしては専門高校に属しています。ひどく偏狭な理解ではありますが、わかりやすくいうと、いわゆる「理系」の学校です。

そのため、国語の単位数は最低限しかありません。現代文分野と古典分野のバランスには気を遣います。いまようやく、古文の動詞の活用まで進みました。

動詞について、○○行△△活用の◇◇形が言えるようになる。

というのが目標です。

これが予想以上に、すこぶる調子が良いのです。生徒の調子が。
こんなに湿度の高い中で、「理系」の生徒が、古文文法について、こんなにも盛り上がるとは。

こうやって当たり前に学んでいることが、とても尊いと思います。

学校生活向上プロジェクト

昼休み、学年のHR委員と生活委員を招集して、学校生活向上プロジェクトを発足させました。
現時点では、とりあえず、休み時間におけるスマホの使い方を改善してもらいたいと思っています。
以前のエントリでも書いたように、「持ち込み禁止」のような指導にはしたくないのです。
行為の指導 - 越後屋の『学び合い』帳
まずは問題意識を共有してもらうため、「そういう目で」クラスを見てもらおうと思います。
もしも、生徒の中でルールを決めようという話になれば、決めればいいと思います。そうでない方法があれば、それでもいいと思います。

席替え

入学して初めての席替えを行いました。
私は次のような原則で席替えを行っています。

  1. 日直が一周したタイミングで行う。
  2. クジ引きで行う。

「どの位置にいて、誰の隣にいても授業に集中できなければならない」と言っています。
もちろん、個別の生徒を見れば配慮は必要なので、あくまでも集団の心構えということです。

高校では「生徒が席替えを求めてきたら行う」というような、消極的な取り組み方が珍しくありません。
しかし、席替えはクラスを集団としてつくっていく上で、非常に重要な指導機会です。積極的な指導の機会として、教員が意図的に行っていく必要があると思います。

指名なし発言

今年度は、「各自が考えたことを全体でシェアしよう」という時間を設けることが多いです。
シェアタイムと呼んでいます。

初めは私が捌こうとしたのですが、生徒はてんでバラバラに発言するので、とても捌ききれません。
(今まで「発言を捌こう」なんて思ってもみなかったので、やってみて初めて、こういう当たり前のことに気づいたのです)

何より問題なのは、発言が「先生に伝える」という構造になってしまうことです。開始10秒で「ダメだこりゃ」と思いました。

私の出る幕ではないと思いました。
生徒に
「たけのこニョッキって知ってる?」
と聞くと、たいていの子は知ってるということだったので、
「じゃあ、あんな感じで、発言したい人が発言して」
と"丸投げ"しました。

ある子に「出尽くしたと思ったら次の項目に進め」と進行役もお願いし、"丸投げ"を極めます。

生徒は、教室全体を見回し、タイミングを見つけて立ち上がります。発言して、リアクションをもらいます。
発言した生徒が座ったら、タイミングを見計らって、次の生徒が立ちます。
気づけば、いわゆる「指名なし発言」という体裁になりました。
進行役が「もう無いなら、次の項目にいきまーす」と言って進めてくれます。

途中で「全員が教室の中心に体を向けてくれ」とお願い(指示)したら、よりスムーズになりました。

「これは正解のないことだから、何を言ってもいいよ」
「少しばかり勇気を出してごらん」
「『発言して、受け止めてもらえた』という積み重ねが、クラスを作っていくよ」
私は雰囲気のことしか言いません。

行為の指導

「○○を学校に持ってきてはいけない」
「授業中は机の上に出してはいけない」
「鞄の中に入れておかなければならない」
こういうルールを課すことに、教員は慣れています。ほとんど疑問を持つことはありません。
なぜかといえば、指導が楽だからです。

「学校に持ってきていた」
「机の上に出した」
「鞄の外に出していた」
これらは誰の目にも明らかな事実なので、咎められても生徒は反論できません(反抗はするかもしれませんが)。

そうすると、
何は持ってきてよいか、あれはどうか、これもダメか、
という方向に議論が流れます。
指導方針という名目で、不要物選定会議が開かれるわけです。何が必要で、何が不要かは、当事者ではなく学校が決めるのです。

このような「モノの指導」は、教員にも生徒にも、思考停止をもたらします。

しかし、学校がやるべきは「行為の指導」だと思います。
モノの使い方が望ましくなければ、モノを禁止するのではなく、どう使うかを考えるしかありません。できれば、生徒と一緒に。

生徒に反論されることも、あるかもしれません。
「普通はこうでしょ!」
「なんでですか」「普通って何ですか」
というように。
こうなると、指導の理由や目的を語れなくてはなりません。教員も「試される」ことになるのです。
それが嫌だから、モノの指導に流れるわけですが。

鏡を見る

「あの服、可愛い」「あんなカッコいい服が着たい」といって服を選んでいるうちは、お洒落にはなりにくいと思います。まして「あのブランドの服がほしい」という人は、かえって残念な結果になることが多いのではないでしょうか。
服と、それを着る人とは、切り離して見ることができません。

「あんな服」や「こんな服」に目を向けるより先に、まず鏡を見ることが大切です。どんなにいい服でも、自分に似合わなければ仕方ありません。

教員の力量形成も、同じだと思います。『学び合い』も含めて、その実践を見ていると、大した結果にはならないのではないでしょうか。
まずは、鏡を見ることです。たいていの場合、そこには見たくないものが映っています。
着ている人と服が切り離せないように、実践と実践者は切り離せません。「実践者が実践を機能させなくしている」ということは、珍しくない話です。

ただ、似合う服を着ていると、どんな人でもそれなりに見えるものです。「それなりに見える」ということが足掛かりになって、お洒落の幅が広がっていったり、質が高まっていくことは、よくあります。
まずは、鏡を見ることです。

こんな、天に唾するようなことを書いていいのでしょうか。迷いながら更新します。

研究授業見学

初任者の先生の研究授業を見学しました。
学校設定科目なので、内容についてはサッパリわかりません。授業の構造だけを意識して見ました。自分にどれだけ「授業を見る目」があるのか、試されます。
二年次の先生も見学していたので、「この授業をどう見るか」をシェアしようとその場で約束しました。ますます、自分の目が試されます。後輩の先生に説明ができなければなりませんし、後輩の先生の視点からも学べなくてはなりません。

以前、尊敬する管理職の先生から

それだけ外で学んでいるんだから、職場に還元せい。

という内容のことを言われたことがありました。その時は初任校だったので、さまざまな制約(!)がありました。
いま異動して3年目になり、具体的にどう還元するか考える段階になりました。還元することが、僕自身の力量形成になるはずです。