越後屋の『学び合い』帳

東京の高校国語科教員。『学び合い』と授業とクラスと。

台風一過

校内規定の3分前に警報が解除になり、本日は完全なる通常営業になりました。
8時25分時点での登校者は36人中30人。半数に満たないクラスがある中で、圧倒的な数字を出し、職員室で報告したらどよめきが起こりました。
9時20分の再点呼では、全員が無事に登校を果たしました。もちろん、驚異的な出席率でした。
台風の最中でも来たくなるクラスなんでしょうか(笑)。

憑き物落とし

「生徒指導は憑き物落とし」と、先月くらいに、ふと思い至ったのです。
それ以来、本当に久しぶりに京極夏彦を読み返しています。

文庫版 狂骨の夢 (講談社文庫)

文庫版 狂骨の夢 (講談社文庫)

憑き物は、きちんと落とさないと、余計に悲惨なことになります。

頑張ることと苦労すること

最近、あまり頑張っていないような気がしています。もちろん新たな試みは常にしていますし、生徒にとって価値あることをやろうとしていますが、授業時間中に「頑張る」のは生徒の仕事だという理解が腑に落ちてからは、本当に頑張らなくなりました。従来の価値観からすると反語的に聞こえるでしょうが。
誤解を恐れずにいえば、授業中はもっぱら提出課題の評価を淡々と進めています。空き時間を他のことに充てられるので、これは本当にありがたい。(ああ、こんなこと書くと「けしからん」と思われるでしょうね。)

先日の「モデル授業」【追補】“モデル”授業 - 越後屋の『学び合い』帳の際も、授業中はほとんど何もしていません。もちろん、集団全体が「安心して」「緩やかに」「学びに対して肯定的に」いられるように、タイミングを見計らってフィードバックをしていますが、私としては頑張っているつもりはありません。生徒役で参加したS先生には「一生懸命に場を作っていたね」とフィードバックしていただきました。客観的に見れば、確かにそうなのです。一方、オブザーバーだったI先生によると、私は「声のトーンで場の空気を操る」のだそうですが、併せて「感覚的にやってる」とも指摘されました(実際その通り)。やはり私としては、頑張ってる感覚はありません。

どうも私は「頑張ること」と「苦労すること」を混同していたようです。そういう働き方は、あんまり好ましくありませんね。
実は、もっと淡々とした日常を送りたいのです。

【追補】“モデル”授業

前回のエントリーの補足です。
“モデル”授業 - 越後屋の『学び合い』帳

武蔵大学の学生さんたちは、従来型の教育において、相対的に「よい思い」をしてきたはずです。たまに「自分の受けてきた教育に納得できないから変えたいんだ」という人もいますが、昨日お会いした学生さんの多くは、そうではないと思われます。
そういう意味で、意地の悪い言い方をすれば、「変わる必要のない」方々です。もちろん、学生の皆さんの責任ではありません。

学生の皆さんは『学び合い』に基づく授業を体験して、それぞれに「違和感」を口にしていました。
自分の中で当たり前だった教育観が揺さぶられるのですから、違和感を覚えて当然です。
一方で、モデル授業の体験では楽しさや有用感も得ているので、違和感を覚えることにも違和感があるのです。「楽しく勉強できたのに、なんで違和感があるのだろう」という思いが、きっとあっただろうと思います。
(昨日の時点で気づいていれば、直接本人に聞けたのに……)

例えば、スマホの利用について。私は普段、勤務校でも授業におけるスマホの利用を推奨しています。古典なんて、いくらでも現代語訳が上がっていますから。このモデル授業でも、学生さんがネットの現代語訳を参照することを前提に、授業をデザインしました。
しかし、彼らはそれをズルだと思っているのです。どんなに私が「見てもいいよ」と言っても、なかなか見ません(オブザーバーの記録によれば、最初の学生さんがネットを見たのは開始8分後だったそうです)。
授業者である私は、その行動を肯定的にフィードバックします。少しずつ、スマホが「ただの道具」になっていきます。

しかし、モデル授業終了後の振り返りにおいて、ある学生さんはこういう内容のことを言っていました。

先生はほとんど何もしてなくて、存在を消していたけど、たまに「そういうのいいね」って声がかかるから、あ、いたんだ、と思う。監視されているんだと思うから、スマホ出しててもTwitterとかやらないし、ちゃんと勉強しようという気持ちになれる。

ふとしたはずみに選ばれた言葉は、その人が無意識のうちに前提にしていることを、かくも如実に表します。
この学生さんは「私が監視的に機能していた」と言いたいわけではありません。上記の引用部分の文脈だけでも、それはわかると思います。だから、この学生さんを非難する気持ちはまったくありません。ただ、この発言は非常に示唆に富んでいます。
授業は楽しかった。自分の意志で漢文を読み込んだ実感もある。文章の内容について、自分なりにイメージ化もなされている。問いに対して、解答(自分の意見)を持つこともできた。先生は教室全体を温かい雰囲気にしてくれた。
それなのに。
「監視」という言葉は、それだけ認知の不協和を表しているのだと思います。

このことは、振り返りの場でしっかり指摘しておきました。
「揺さぶった」という意味では、教職課程のモデル授業としての役目を果たせたのではないかと、満足しています。貴重な機会を、ありがとうございました。
武蔵大学の皆さん、授業参観はいつでも来てね。

“モデル”授業

研究協力者

武蔵大学の教職課程科目の研究協力者として、国語科教員免許状取得希望の学生さんを対象に、モデル授業をやらせていただきました。

教材は

以前のエントリーにもある漢文『史記』「晏子之御」にしました。
【漢文】晏子之御 - 越後屋の『学び合い』帳
しました、というか、新しく教材を開発する余裕などありませんでしたから、やったばかりの教材を使うしかありません。
結果的には、難易度やボリュームの点でも良かったと思います。高校生が4時間で学習した内容を削りに削って、大学生1時間ぶんに直しました。「離婚したかどうか」という解釈の課題を中心に、学生の皆さんは必死に漢文を読んでいました。安易に「全員達成、良かったね〜」を体験してほしいわけではなかったので、あれで良かったと思います。

豪華オブザーバーのいる授業

今回の件をコーディネートしてくださった武蔵大学のT先生、北海道から東京に移住した中学国語のI先生、私の結婚披露宴でスピーチを賜った(笑)都立R高校のO先生が、オブザーバーとして授業の様子を見ています。さらに、国語科実践家の先達S先生が学生さんに混じって生徒役として参加しています。教員が頑張る授業だったら、プレッシャーのあまり発狂していたかもしれません。
そんな中で授業は次のように進んでいきました。

  1. アイスブレイクのつもりで、自虐ネタ多めの自己紹介(ただし、ほぼウケず)
  2. プリント配布
  3. 私の範読に続いて音読しながら、教材文を17のパートに区切る
  4. 課題の説明
  5. 正解が一つに決まる課題の解答例掲示
  6. 終了時間の設定
  7. 「全員達成」を含んだ目標の確認
  8. 学習活動
  9. 解釈のシェアと私による講評
  10. 授業全体について、先生方と学生の皆さんのカンファラン

授業者としての私

私個人の収穫は、オブザーバーや学生さんから、授業者としてのフィードバックをもらえたことです。
記憶を頼りに、学生さんの感想をざっと挙げてみます。

  • 相談する、机の向きを変えるなどのアクションのたびに、私がそれを肯定する一言を発したため、本当に何をしてもよいのだと伝わった。
  • 私の存在感はないのに、自分のつぶやきが拾われた時に「あ、見られてる」と感じた。
  • 自分は一人でやっていたが、行動を強制されることがなく、とても尊重されていると感じた。

この他、オブザーバーの先生方にもベタ褒めしていただき、非常にニヤニヤしてしまいました。

防災の夜

私の自治体には「宿泊防災訓練」という行事があります。読んで字のごとく、それ以上言うことはございません。何も、何も申しますまい。
備蓄のアルファ化米を調理して教室で食べていました。アルファ化米一箱あたりの量と生徒の人数の関係で、どうしても余りが出ます。炊き出し体験そのものが訓練ですから、これは仕方ありません。
私のクラスは4パックほど余っていました。「どうするのかなぁ」と思ってボンヤリ見ていたら、いつの間にやら、こういうやり取りが始まりました。

「ご飯残ってるよー!」
「食べたい人ー?」
7人ほど手が挙がる。
「多いなww」
「いくつ余ってんの?」
「4パック」
「じゃあ、じゃんけん」
「え、勝った人だけ? 分配しないの?」
「どうしよっか」
相談している。たまに「これくらいの量なら」「乾パンもあるし」などの声が聞こえる。
じゃんけんということで話がまとまったらしく、
「神じゃんけんにしよう」
「先生ー、じゃんけんしてくださーい」

1分にも満たない会話でした。この会話群が何人でなされていたのか、わかりません。私は「分配しないの?」という一言がなかなか気に入っています。意見(異見)のあることが当たり前、という前提を集団が共有しているのだと思いました。
私は、じゃんけん役のリクエストを言われるまでは、ただ座って眺めていただけです(←疲れてたから)。
担任の使い方がわかってるなぁ、という意味でも嬉しい瞬間でした。